2006年09月06日

理科離れ

理科離れ(りかばなれ)とは、理科に対する学生・生徒の興味・関心が低くなったり、授業における理解力が低下したり、日常生活において重要と思われる基礎的な科学的知識を持たない人々が増えていたりすると言われる一連の議論である。科学的思考力や計算力の低下により、特に高等教育において授業の内容を理解できない生徒が増え、専門的知識・技能を有する人材の育成が難しくなることが問題として指摘されている。

一般的に科学技術が発展している国ほど市民の科学的思考力が低下しているとの指摘もある。これは科学技術が高度になり複雑化するにつれてブラックボックス化し理解しにくくなっているという側面もある。ただ、日本では、一般市民の科学リテラシーが先進諸国と比較しても極めて低いことが指摘されている。

科学教育に関する一部の研究グループは、文部科学省が理科の学習内容を大幅に削減し、科学教育の質を低下させていることに対する揶揄を込めて理科離しと表現することがある。

現状
現状では、理科離れの明確な定義は存在しない。それを指摘する根拠の一つとして、国際教育到達度評価学会が実施した「国際数学・理科教育調査」により、日本の生徒は成績が良いにもかかわらず、理科が面白いと思う生徒が極めて少ないことが挙げられる。「科学技術と社会に関する世論調査」でも、国民の科学技術に対する関心は先進諸国と比較して極めて低いとされる。このような状況を表現する一つの用語として、理科離れが使われるようになったと考えられる。

理科離れに関する研究は、専門的な研究対象としても位置付けられている。研究者に対する研究助成金として最も重要と考えられている、文部科学省科学研究費補助金では、時限付き分科細目の科学高等教育の分野において数学嫌い、理科離れの用語が使われており、大学教育の質の維持が著しく困難になっていると述べられている。また、文部科学省の科学技術・理科大好きプランでは科学技術離れの用語も使われている。


議論の歴史
1977年に改訂された学習指導要領の内容について、学校教育全体における理科の位置付けが低くなったと指摘された。実際に、その頃から理科に関する生徒の興味・関心が低下し、理科の授業内容を理解することが困難になる場合が見られたとされる。

そこで、文部省は1989年に改訂された学習指導要領で、実験・観察を重視することを求めるようになった。実験を増やすことが理科離れを防ぐための問題解決の方法として考えられ、1990年代からはそのような運動が盛んに行われた。

原因
理科離れの原因として考えられている内容は次のように分類できる。

子供をめぐる状況
学習指導要領の改悪
ゆとり教育の推進により学校の授業時間数が削減され、教科書の内容も従来と比較して著しく貧弱なものになっている。そのため、多くの観察、実験、資料などから科学的な原理・法則を導き出し、理解を深めるような授業がやりにくくなっており、本質的な理解ではなく暗記が重視される傾向がある。言い換えると、学習事項の削減は暗記事項を減らすことを目的にしていたにもかかわらず、逆に与えられた知識がぶつ切り化し、児童・生徒に多様な事象を相互に関連付けて体系付けることを困難にしてしまったのである。こうして学習事項の削減はむしろ、意味づけのできない暗記を強いる結果を招いたのであった。その結果、理科の楽しさが伝えられにくくなっている。

またその一方では、旧来の指導要綱で暗記が偏重され過ぎた結果、「テストが過ぎれば忘れてしまう」種類の知識ばかりとなった反省から、体験や観察を重視するカリキュラムへの移行が見られるが、これらは依然として個人の内部において論理体系を育んだり、その原理を探求するといった、理科=科学の根底にある探求が等閑になっている傾向も見受けられる。実験や観察の結果を考察し、そこから結論や真理を導き出す過程が欠落した結果、現象のみの知識だけを持ち、その理由に対する理解に及んでいないケースが見られる。2004年4月には、小学生の4割が天動説的な説明の文章に「正しい」と回答しているといった報告も提出され、同問題をより深刻な物と受け止める向きも多い。1989年や1998年に発表された学習指導要領では、「地球が動いている」ことを理科ではっきり学習するのは中学校であるので、天動説を信じている小学生が多いことも驚くことではない。

個々の学習内容に関しては、中等教育、特に高等学校のカリキュラムにおいて地学履修者の大幅な減少を来たしている。そのため、日本は世界有数の地震国、火山国であるにもかかわらず、地震や火山に関する中等理科教育をほとんど受けないものが大多数になるという事態を招いている。

また、例えばアメリカにおいてはかつてのスプートニクショック以来の理科教育の現代化のためのプロジェクトチームのうち、物理学、化学、地学のチームは解散したが、生物学だけは今日まで活動を続けている。生物学はパラダイムシフトが現在でも継続して起こっており、しかも生物学を基盤とするバイオテクノロジーが基幹技術としての発展を遂げている。また今後ますます深刻化する環境問題への対処のためにも生物学の知識は欠かせない。アメリカはこうした事態を見込んで生物学教育の現代化政策を今日でも継続していると考えられている。しかし、日本では学習指導要領における生物学分野の削減が著しく、現代生物学の習得能力を奪っているとの指摘がされている。

詰め込み教育、受験競争
短時間で限られた問題を正確に解くための、詰め込み教育や受験競争によって、理科の本来の目的の一つである理論的にじっくりと考察する態度が軽視されるようになった。また、理科が好きな生徒でも、受験競争が優先され理科に関する趣味を楽しむゆとりが少なくなっている。

教科書の編成でも、欧米の理科教科書は日本で言うならば学習百科事典に相当するボリュームのものを学校から生徒に貸与し、生徒はここから自分の関心の深い分野や切り口を探索できるようになっている。それに対して日本の教科書ではあらかじめ精選したメインストリームを設定し、これに沿った構図を無駄なくシステマティックに教授する構造となっている。確かに科学の論理的体系を整理した形で身につける上で日本の教科書は優れている面があるが、研究が進展しつつあるまだ十分体系化されていない背景部分が大幅に排除されており、生徒の多様な関心をすくい取る力に乏しいのみならず、既に完成された体系を受容するだけという、科学に対する能動的態度を損なう要素も指摘できる。

自然に触れる機会の減少
子供たちが自然に触れる機会が減少し、生物の観察や飼育などの体験を行う機会が減少したことにより、不思議だと思ったり、科学的な価値観を知ることで科学に興味を持つ子供が少なくなっているとされる。しかし仮にこれが正しかったとしても、観察能力が低下したと言う事であり、離れの引き金である好き嫌いという感情とは別である。たとえて言うなら、「霊感の強い自然科学の分野の権威者」と、霊感・オカルトとの関係のようなものである。理科が嫌いになるという意味の離れの傾向は、都市部と農村部で比較してもそれほど大きな差は無いことから、この問題は、自然環境の有無よりも子供を取り巻く状況に依存する要素が大きいと考えられる。農村部での子供の自然体験の減少には、農村部での高齢化に伴う児童数の減少で年長の子供から年少の子供への自然の中での遊び方の伝承が途切れ、これによって子供が外で遊ばなくなったことも指摘されている。

また、かつては県ごとに組織されたローカルな自然史研究会、生物学会、地学会の類に加入し、地域の自然に基盤を置く教材研究に努める理科教員が多かったが、近年は若い教員の加入が著しく乏しくなっており、校務分掌の多忙化もあってこうした活動が低調になってきている。そのため、地域の自然に関して豊富な知識を持つ教員の数も減少してきており、児童、生徒への適切な助言をこなせない状況が生まれてきている。

子供の趣味、遊び、手伝いの変化
おおよそ1960年代までの日本では、ラジオ少年という言葉に代表されるような、電気製品の分解や修理、組み立てなどの電子工作を楽しむ子供が多かった。これは完成品が高いものでも、半完成品として販売されていたり、作成方法が公開されていることにより、部品を集めることによって作ることが可能になっていた。1970年代までは、それら子供向けの半田ごてを利用する、ラジオや無線送信機などの工作キットも多く発売された。実際問題として他の娯楽も少ない事から、比較的安価なそれらのキットを利用して、ラジオ放送を楽しむ子供らも少なくはなかった。アマチュア無線の存在もこの傾向に影響を与えていたと考えられる。

また、電気関係以外にも、物を作ったり解体したりする趣味や遊びが多数存在し、そのような子供に対する尊敬の念もあった。また親たちも家庭で使われる道具類を自分で修理したり自ら作成してしまうことも多く、それを子供に手伝わせる機会も頻繁であった。そこで得た興味や技術を糧にして、大人になってからも専門家として科学技術を支える重要な役割を務めていることが多い。

しかし、1980年代中頃から1990年代にかけてテレビゲームが普及したことや、家庭で用いられる電気製品が高度化して、分解や修理を行う必要性が無くなった(あるいは出来なくなった)事もあり、自然観察や工作を楽しむ子供は減っていった。また、さまざまな製品の値段が大量生産によって低価格化したことで、家庭で使う道具類を自分で修理しなくなり、道具を家庭で作るという行為に至ってはそれ以前に衰退していた。このことが、理科離れの原因の一つと考えられている。

1980年から1990年代以降には、子供向けの文化媒体(主に娯楽媒体)市場が拡大した。これによりプラモデルとミニ四駆の人気などのキャラクター商品が台頭し、電子工作キットの地位が相対的に下がった。また、子供向け娯楽媒体が一日の生活において一定の時間を占めるようになったため、子供らが日常の生活や手伝いを通じて、家庭内に普遍的に存在する様々な現象に関心を抱く機会が減っている事を挙げる向きもある。またこの過程において、読書などの行為に没頭する時間も年々減少傾向が著しく、2004年の調査では高校生でも、学校カリキュラム以外では、一日の読書時間がゼロという生徒が4割を占めるなど、知的好奇心が低下したと考えられる傾向が見られる。この傾向は大学生にも顕著で、2000年代に前後して、大学受験の要求する学力レベルが低下している中で、新書などの書籍を全く読まない、もしくは読む能力が無いという学生も多いと嘆く大学教授もいる程である。(「活字離れ」にて詳述)このためか、知的好奇心をもって物事に取り組む層とそうでない層の間の溝は深く、意思疎通が図りにくいと指摘する面もある。

科学に詳しい者を排除する社会傾向
科学技術への関心を持つ層は表面的なイメージや先入観のみで「おたく」というレッテルを貼られがちになり、おたくを嫌悪する層によってコミュニティから排除される可能性もある。近年では、若い女性が科学的な知識に富む男性を「おたく」として、恋愛や結婚の対象から排除することがある。進学先を決定する時期は、異性への関心が高まっている思春期に当たるため、このようなことが、男子学生の理科離れを促進しているという指摘もある。

だがその一方、日本の若い女性には、時折科学技術への従事者に対して注目をすることもある。例えば、日本人のノーベル賞者や、高収入のIT技術者などがマスコミで報道された場合などである。

社会人をめぐる状況

大人の非科学的思考
特定の世代に限らず、科学的な根拠が全く無い話を単純に信じ込む傾向が認められ、その中には日本人だけに顕著に見られるものがある。血液型性格診断やマイナスイオンが代表的な例である。他にも、家に住み着いた小動物(昆虫やクモなど)を人間の生活に害を与えるものでなくとも駆除したり、逆に人間に感染する病原菌をもつにも関わらず愛玩する(ミシシッピーアカミミガメなど)などの傾向が挙げられよう(益虫・害虫参照)。これらの原因として、理科離れが原因もしくは結果として論じられることがある。科学離れと表記されることもある。理科教育、科学教育の内容が十分ではなく、疑問に思う態度が養われていないとされ、物事のとらえ方において論理的・科学的・理性的な思考よりも感情的な思考が優先する傾向がまま見られる。


これには近代以降、科学の術語の多くが時代に応じた科学的思考を伴って受容されたのではなく、しばしば科学的思考と対極のところに位置する伝統的なコスモロジーの中に位置づけられて受容されたことも考慮する必要がある。例えば「黴菌」「伝染病」「遺伝病」「消毒」といった医学、保健衛生学の術語は、伝統的な「穢れ」や「禊」の思想をさらに権威付け、補完する術語として受容され、ハンセン病や水俣病患者に対する激しい差別のひとつの要因となった。

また、社会人が広範な科学知識を現実の科学の発展に即して得る手段としての科学ジャーナリズムも、日本では基盤が貧弱である。高度経済成長期にホワイトカラー向けの、経済バブル期にもっと広範な大衆向けの科学雑誌の発展がありはしたが、その多くがバブル崩壊後に廃刊に追い込まれている。科学に対する興味が薄れることによって売上げが減少し、人目に触れる機会が減少することで、さらに売上げが減少する悪循環を生じていると考えられる。

現在は一般向けの総合科学雑誌は岩波書店の「科学」、日本経済新聞社の「日経サイエンス」、ニュートン・プレスの「Newton」程度であり、前2誌もむしろ研究者、技術者向けの比較的高価な専門誌と認識され、ホワイトカラー層においてすら、敷居の高いメディアと認識されているのが現状である。「日経サイエンス」はアメリカの"SCIENTIFIC AMERICAN"誌の日本版だが、英語版本誌及び大半の他国語版がどちらかというとホワイトカラー層にターゲットを置いているにせよ、安価で大量に発行されている大衆雑誌の扱いであることと比較すると、日本における大衆、特に高等教育を受けているホワイトカラー層の科学リテラシーの低さは深刻なものがあると考えられる。

ただ、「科学のみが絶対的な価値基準なのか?」といった疑問もあり、上記の指摘に反駁する意見も数多い。また、ある程度体系だった科学リテラシーを持つには、各々の教育水準や幼少からの家庭環境も影響しているだろう。これに類する見方は教育社会学で研究されてきている。どのような過程であれ、問題解決に至るには、これらの見方も取り入れる必要があろう。

科学技術に対するメディアの扱い
上記のような科学専門メディアの衰退の一方で、原子力事故や感染症をめぐる問題など、現在の科学技術における失敗例や、未解決の問題は数多く存在する。こうした問題は、科学技術を用いることによってしか解決が困難なものが多いにもかかわらず、一部には、それらの危険性ばかりを強調し、科学技術そのものに対する不信感を持たせるような報道や世間の論調がある。また、科学技術に関わる科学者や技術者に、人格的欠陥があるようなイメージを与え不当に貶めるような論調も少なくない(逆に、科学者や技術者が人格的に賞賛すべき人物であると極端に持ち上げることもある。これも逆の意味で、彼らに対するメディアの扱いが歪んでいる証左であろう。田中耕一を参照)。これは報道側に、科学に関する基礎的・社会的知見を欠いた文系出身者が多いためと指摘する者が多い。

研究者・技術者の就職難と社会的地位の低さ
現在の日本では、理系の分野で研究者・技術者を目指しても、特に大学院博士課程修了者の就職難が極めて深刻であり、また就職できたとしても文系と比較して待遇が劣ることが多いとされる。理系の生涯賃金の平均が文系より5000万円近く低いとする調査もある。そのため中学校や高校で理科が得意であっても、その才能を伸ばして専門職に就くことをあきらめ、大学で文系の学部や医学部を選択する生徒も少なくない。特に80年代後期のバブル時代には金融業がもてはやされ、賃金も銀行と製造業とでは大きな格差が生じた。理工系学部を卒業しても製造業には就職せず金融業に就職したり、大学進学に当たって、実験や演習・リポートなどで学生生活を拘束されがちな理工系を敬遠し、文系学部に進学するという傾向も目立った。

これらの現象には次のような背景が指摘されている。 欧米先進国のみならず、多くのアジア・アフリカ諸国などでも、高学歴者とは大学院の修士課程や博士課程の修了者を意味し、理科系の大学院修了者が政府機関や企業の指導者層として数多く登用されている。しかし、日本ではこうした社会的地位に登用されるのは難関大学の文科系学部卒業者である。現状では、文理を問わず、大学院修了よりも学部卒のほうが優遇される傾向にあるため、基礎科学分野や科学技術分野の高度な訓練を受けた者は社会の指導的立場には立ちにくい構造になっている。理科系の大学院修了者は、文科系学部卒エリート層の補佐的立場と認識されているという見方もある。したがって、科学技術的な観点が政策決定や企業意志の決定に反映されるには、一定の障碍が生じると考えられる。これは近年のSTS(科学技術社会論)研究も指摘するところだろう。また、日本の銀行の融資システム上研究者によるベンチャー起業が困難であり、大学や既存の企業のサラリーマン技術者としてしか自己の有する技術によるビジネスチャンスを得られないという問題もある。

対策
理科離れをなくすため、などの目的で、各地で科学実験教室や講演などが多数開催されている。また、授業の中で実験や実習を取り入れる動きも盛んである。

2004年に、科学技術・学術審議会人材委員会は、修士号以上の学位を持つ教師を増やすなどを盛り込んだ提言を公表した。また、各種の助成金を設けたり、科学技術を一般の市民に分かりやすく説明するための専門職を設置するなど、政策としての対応も見られる。

これらは一つの対策として有効な方法であるが、あくまで対症療法的な対策であり、子供や教師を取り巻く社会環境の変化を改善することが最も重要とする意見がある。また、子供に理科への興味を持たせることには注目が集まっているものの、社会人をめぐる状況、特に理系の社会的地位の低さなどについての議論は、まだ十分ではない。一般市民向けのイベントなどを開催しても、低学年の子供ばかりが集まり、青年層の参加がほとんど無いようなケースも見られる。

さまざまな理科離れ対策が1990年代から活発になっており、それらに参加した子供達は高等教育を受けたり社会で働いたりする世代に成長した。しかし、理科離れ対策がその世代に与えた影響について、十分な調査・分析が行われた例は少ないので、今後の研究の進展が待たれている。

理科離れの問題は、優秀な生徒に特別な教育カリキュラムを提供するエリート教育としばしば混同されることがある。しかし、理科離れは一部の特別な生徒ではなく、国民全体による知の問題とも解釈できるため、本来は同等に議論すべき問題ではない。

理科離れ対策の本質は、学校や教師だけに一方的に責任を押し付けて解決する問題ではないというところにある。社会全体の知的水準の向上、高等教育や知識人のあり方など、非常に広範な観点から見直すことが求められよう。

理科離れによって派生する社会的問題
理科離れによって、疑似科学を巧みに利用した悪徳商法やカルト教団等による活動などが行いやすくなる。そのため、理科離れは彼らと癒着した政府によって、意図的に進められているのではないかという陰謀論も存在する。

それは兎も角としても、疑似科学的な物を利用した悪徳商法は多く、浄水器や空気清浄機・健康食品の一部製品では、学術用語風の造語や根拠の無い数字の列記で効能を謳う物まであり、これら製品の販売がしばしば、不当表示や薬事法違反によって摘発される事件も発生している。

これら悪徳商法では、「○○大学教授」や「○○博士」といった、学歴や学位を持つ知識人が太鼓判を押したなどとする宣伝文句が多用される。しかし、ある程度の科学リテラシーや、一方的な情報に流されない常識的かつ健全な消費者としての視点さえ持っていれば、その宣伝文句やデータなどに惑わされることはないとも考えられる。

だが科学が歴史的に大学を揺り籠として発展してきたため、学術用語などの難しさもあいまって、「科学とは専門家のための学問である」という認識を大衆に与え続けている。このことから、科学の権威によりその様相のみに惑わされ思考停止してしまう大衆の性質もさることながら、科学・技術の適切な社会的認知をもたらせていない知識人のあり方の双方に問題があると思われる。また、学問上の所産が知識人により非科学的に濫用されることもあり、例えばゲーム脳のような問題はこれにあたると考えられる。

また、政策を立案する政府機関で指導的立場にあるスタッフに、高等教育機関にて理科系の学問を専攻した者が少ないという現状が指摘されている。これはつまり、日本の政府機関は厚生労働省など一部の官庁を除いて科学リテラシー能力が低く、科学・技術的な視点を必要とする問題への適切な対応や、合理的な政策立案に差障りが生じているという見方である。

政策立案スタッフが必ずしも理科系の学問を修める必要はないかもしれない。しかし、政策科学的な視点からも、また国家を取り巻く諸争点を考慮しても、いわゆる文系・理系の専攻の差異に関係なく、一定の科学リテラシー能力を養う義務を教育制度が負う必要があると考えられる。理科離れは、(特に大学での)一般教育の復権を取り巻く問題や、学際的な視点、ひいては知と知識人の社会的なあり方を巡る問題とも関わっていくだろう。

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タグ:理科離れ
posted by 塾長 at 15:46 | 日記
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