2006年09月06日

中学公民

公民(こうみん、英 citizen)とは、政治に参加することができる人々のことである。市民、国民、住民、人民などの単語と似たような意味を持つが,それぞれの区別に注意を要する。

政治への参加の意味合いから「市民」と言い換えられることも多いが、厳密には参政権、特に選挙権や被選挙権があることをもって公民と呼ぶことが多い。このため、ほとんどの公民という言葉は、市民におきかえることが可能であるが,市民は多義的であるため,特に上記意味を強調したい場合には公民と呼べば良かろう。

中華民国、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国では国民、国籍者の意味で憲法上公民という語が使われている。

教科としての公民
中学校3学年で学習する社会科の分野は、かつては「政治・経済・一般社会」と呼称したが、1970年代以降は公民と呼称している。これについては、「国家に奉仕する国民を育成しようとするもの」と教育労働運動が批判している。

政治(せいじ)とは、国家など集団や共同体における、統治に関する活動。「まつりごと」(政)とも言う。

狭義には国家などの、統治組織の活動内容に関して利害関係者間で行われる調整や交渉等の活動、またそのような活動によって構成される過程を指す。例えば、政治体制、政治家、政治活動などという用語で意味されているところの「政治」は、そのようなものである。

広義には権力を維持拡大するために、影響力の行使や、様々な人、制度、組織が影響力を行使することで織り成される過程が政治とされる。

また、政治と行政の違いは、政治が立法に関係し、その意味では立法される法の外に存在する超法規的存在であるのに対して、行政は法に基づいて行われる法規的行為である。それゆえ、政治には、超法規的行為や非合法活動(例えば、クーデター、テロなど)も含まれるが、行政にはそれらは含まれない。

定義と特徴

社会関係
図は池田義祐の研究に基づく。政治が成立する社会の基礎にはさまざまな関係が存在している。とくに政治と関連が深いのは図でいう上下関係の部分である政治とは人間集団、とくに国家や国家間における権力の配分やその行使のされ方をめぐる事象のことであるが、この事象の概念については必ずしも明確ではない。

政治については2つの主要な見解がある。

ひとつは国家などの機構の働きとして政治を捉える見方(機構現象説)
ひとつは社会的または集団的行動による機能的行為現象とする見方(機能現象説)
また政治の基本的性質については2つの主要な見解がある。

ひとつは正義の実現や市民的自由の保証、福祉の増進などといった政治の目的との関連でこれを捉えようとする立場である。(イェリネックに代表されるドイツ国家学やアメリカの制度論的政治学が古典的である。)
もうひとつは権力闘争や「支配-被支配」の関係といった政治的意志決定や合意の形成に不可避に伴う力の契機に着目する立場である。(主に社会学的観点から、政治を影響力として捉える説があり、ウェーバーやラスウェルに代表される。)

科学としての政治学
政治研究としての政治学は、さまざまな公共政策の内容とその目的を対象としており、個々の具体的政策の検討から、それらが含まれている一連の包括的政策、政策プロセスなどを研究するものである。サイモンによれば、このような公共政策の構造は一般に政策の目的と手段の連鎖からなるピラミッド構造で把握される。このピラミッド構造において、その頂点に近づくにつれ、より漠然として抽象的な価値の領域、すなわち政治の道徳的基礎や倫理的当為を必然的に考察の対象とするようになる。したがって政治学の下位領域として政治思想も主要な対象として成立する。

研究方法とその対象
政治学の主要な研究方法には3つのものがある。

心理学的アプローチ
社会学的アプローチ
数学・統計学的アプローチ
また政治学の研究対象は以下の3つに大別される。

政治行動としての人間行動
政治社会の構造・機能
社会集団と政治過程

政治思想の研究
政治についての認識は個人によって異なり、政治は必然的に党派性を帯びるものであるから、政治思想はつねにイデオロギー化する傾向がある。今日の政治思想がまずイデオロギー論として語られるのはこのためである。イデオロギー研究では、イデオロギーの思想そのものよりも、それが現実の社会でどのような影響力、機能を持つかを研究することが重要視されている。

関係諸科学
政治を対象とする学問は政治学だけではない。社会学・経済学など多くの人文科学が政治を主要な対象領域の一つとしており、政治学自体も法律・経済・道徳・宗教・教育・人間心理などを研究対象として含む。また、政治学から主に経営学に影響されて独立した学問分野として行政学があり、現在では別個の学問分野として扱われるのが一般的である[1]。

主要な用語
ここでは政治学で特に頻出される用語について、政治学上の定義・命題を簡単に示す。




イデオロギー
政治社会を制約する信条体系。現状の政治学においては政治思想の研究はほぼイデオロギーの研究と同義である。イデオロギーの定義・命題自体が個々の研究の成果でもあるため、さまざまな定義があるがマンハイムによれば、すべての人間がその社会内の位置によって思想を制約される「存在拘束性」である。(詳細はイデオロギー参照)
権力
政治現象を解決するための影響力。政治学では権力を実体概念とする立場と関係概念とする立場がある。実体概念とする立場に基づけば、ある人格が権力を行使できるのはその背景に暴力や絶対的な法的拘束力、絶対的な権威などが存在するためであるとされる。それに対し、関係概念とする立場に基づけば、権力は行為者間の間の影響力の一種で、被支配者が積極的であれ消極的であれ、それを権力と認めるところに存在するという見方である。権力の背景となっている暴力や法的拘束力、権威などを基底価値というが、実体概念説ではこの基底価値(資源)がただちに権力を生じさせ、支配関係を形成するとされるのに対し、関係概念説では基底価値を保持しているだけでは権力は生ぜず、それを利用して他者との支配関係を形成してから初めて権力関係が生ずるのである。
権力の資源
権力はそれ自体では成り立たず、必ず背景に基底価値(資源)を持つ。政治学においては、何らの資源も持たずに強制力を発揮する権力は存在しない。ラスウェルはこの資源の実例として、健康・富・知識・技能・社会的地位・愛情・高潔(徳の高さ、人徳)などをあげている。もちろんもっとも直接的に強制力を発揮するのは暴力であるが、現実の法治国家では暴力装置を基本的に国家が独占しており、通常の人間関係で個人がこれを行使した場合、ほとんどすべての事例において非合法とされる。また国家が暴力を「最終的手段」(ultima ratio)として独占していることは、国家が権力関係において主要な位置にあることを示している。
支配の三類型
ウェーバーによって示された支配の正当性の基礎に関する三つの理念型。カリスマ的正当性・伝統的正当性・合法的正当性の三つである。カリスマ的正当性とは、支配者個人の超人間的・超自然的資質やそれに基づく啓示などの指導原理に被支配者が個人的に帰依するときに生ずる正当性。宗教的指導者の権力などがこれにあたる。伝統的正当性とは、血統・家系・古来からの伝習・しきたりなどに基づいて被支配者を服従させる正当性。伝統が重んじられ、変化に乏しい停滞的な社会で見られる。合法的正当性とは、秩序・制度・地位など合法性にもとづく正当性で、法をその基礎としているために、ほかの2つの正当性に比べて安定している。法治国家で見られる。これら3つの類型はあくまで把握のためのツールとしての理念型であり、現実社会にそのまま存在しているわけでなく、実際の支配はこの3つの正当性が影響しあって総合的に存在している。
社会統制
社会統制は社会学において成立した用語であるが、政治学でも用いられている。広義においては「社会化」と同一の内容を持つが、狭義においては「なんらかの制裁によって、個人の行動を一定の期待された型に合致させる過程」を意味する。現実の政治社会に存在する社会統制はさまざまな角度から分類可能であるが、まず統制の手段としての制裁が物理的であるか経済的であるか、心理的であるかによって分類される。物理的な統制には死刑、懲役・禁固などの自由刑、体罰などがあげられる。経済的なものにはボイコットや解雇、心理的なものには嘲笑や非難などがある。次に統制の目的が自覚的であるか無自覚的であるかによって分類され、法による統制、叱責、刑罰、村八分などは前者、嘲笑やゴシップなどは後者に分類される。最後に制度的な統制と非制度的な統制に分類できる。前者は統制の主体、手続き、効果などが明確に定められており、制度として統制が運用されている。後者は嘲笑、賞賛、非難など特定の形式によらないものである。
少数支配の原理
政治学において、政治権力を持つ者は必ず政治社会において少数者である。ルソーは多数者が少数者を支配するのは自然の摂理に反すると言っており、ウェーバーも政治権力は常に少数者が物理強制力を独占し、多数者を支配するところに存在すると主張した。ミヘルスはとくに政党政治が民主主義に不可欠なものであるにもかかわらず、政党組織が発展すると指導者に権力が集中し、寡頭支配が行われるようになると述べた。政治社会の代表である国家においては、立法・行政の能率的遂行の要請と権力者の権力欲求から、組織的な専門分化と少数者による管理体制が生じるのは必然であるとされている。
政府
政治学においては、国家と政府は厳密に区別される。近代政治学では、国家を主権を持つ法人格で、その政治社会において暴力および道徳的価値・法規範を独占すると捉えられた。政府はその国家の手段として存在する統治機構のこと。ロック以前の革命理論においては政府転覆とは国家の転覆であると捉えられていたが、ルソーにおいては国民の集合体としての国家と立法によって形成される政府が区別されており、政府転覆はひとつの法規範に基づく政府の転覆を意味しても国家の転覆を意味しない。またリーバーは国家は政府の形態とは無縁に存在する政治社会とし、政府はその目的のための手段であるとした。

政治学史
ここでは政治学の歴史について概観する。



古典古代(ギリシャ・ローマ)
古代のギリシャやローマにおいては、ポリス(polis)やキヴィタス(civitas)という特異な政治社会が形成されていた。ポリスやキヴィタスを当時のそれ以外の政治社会と区別する特徴としては、スパルタのリュクルゴスやアテナイのソロン、ローマにおける十二表法の成立などに見られる、政治が制度によって問題解決されるものという意識が存在したことであった[2]。リュクルゴスやソロンは「立法者」(nomothetēs)と呼ばれ、今日で言えば憲法に当たる法律を制定し、法制をしくことで現実の社会構造の変化に政治社会を対応させ、かつ専制を抑制する機能を果たした。一方でポリスやキヴィタスといった政治社会は実際には特殊であるにもかかわらず、普遍性をもって捉えられ、このような社会を必然化し永続的なものであると捉える傾向も存在した。

この時代を代表する哲学者としてプラトンとアリストテレスが有名であるが、この2人の間の政治思想と方法論の相違と対立はそのまま現代の政治学の方法論においても当てはまる[3]。

プラトン
ギリシャの哲学者プラトンの著作は数多いが、その中で『ポリテイア』は政治を直接問題としている。ただし『ポリテイア』が対象とする政治社会は前述したポリス社会であり、近代的な政治社会とは異なっている。プラトンは国の制度というものが人間を育てるものであると述べ、よい国制がよい人間を、悪い国制が悪い人間を育てるとして、よい国制について論じている。プラトンのよい国制は各自の能力によってその階級を決め、適切な位置に適切な人材を配置することによって実現できると述べ、したがって結果的には個人を不平等に扱うものである。しかしプラトンは性差による不平等については批判を加え、女性であっても能力さえあれば軍人になってもかまわないと述べた。またプラトンは軍人や統治者などの支配身分に属する者は私有財産をもってはならず、共有しなければいけないと述べた。これは支配身分が公共性を持たなければならないことを主張するもので、支配身分の者は1:1の結婚生活も許されず、支配身分の者から産まれた子供は親子関係も明らかにされずに国家の共有財産とされるべきことを主張した。このような政治社会の頂点に立って管理するのは国家の教育者としての哲学者であるべきという哲人王思想を述べた。

アリストテレス
アリストテレスはプラトンの政治論を、きわめて非現実的であり経験に基づいていないと批判した。彼によれば国制においては政治制度をどのように運用していくかという観点が重視されねばならず、プラトンのように理想の政治社会から現実の国制を改変するのではなく、現実の政治社会から理想の国制を展開していくべきであった。国制はその追求する目的によって決定される善悪と支配者の数によって形態が決定されると述べ、それによって国制を大きく6つに分類した。アリストテレスは人口や風土、国民性などから適合的な国制を研究していくべきだと考えていた。またアリストテレスは「政治人」(zōon politikon,homo politics)という人間観を示し、人間は必然的に政治社会を生きると述べた[4]。

アリストテレスによる国制の分類
支配者の数 よい政体
(支配者と被支配者の利益が追求されている) 悪い政体
(支配者の利益のみが追求されている)
1人 王政(basileia) 僭主政治(tyrannis)
少数 貴族政(aristokratia) 寡頭政治(oligarchia)
多数 ポリス政治(politeia) 民主政(dēmokratia)

ストア主義(キケロとセネカ)
共和政ローマの代表的な文人・政治家であるキケロはストア派の哲学に影響され、自然法思想を政治研究に取り入れた。また『国家論』のなかでキケロは正義を自然法に基づくものとし、人は正義のために生まれ、権利は自然に基づくと述べた。キケロはさらに自由と平等を関連づけ、すべての公民が同時にかつ平等に自由を享受できる国家でなければ、それを自由の国家ということはできないと述べている。キケロは共和政ローマの現実の国制を重視して機構論を展開し、執政官・元老院・平民会の間に権力分立が成り立っていることは自然法に合致し、それこそが自由を保障すると述べた。キケロはこのような立場からカエサルの独裁を激しく非難した。キケロがこのように政治社会と自然法を同次元に見ていたのに対して、帝政初期のストア派を代表する政治家・思想家であるセネカは、現実の政治社会と自然法は乖離していると述べた。自然法に基づく世界共同体・普遍的な世界は精神的なものであり、現実の政治社会で自然法に基づく平等を実現することは不可能で、社会はどこまでも必要悪でしかないと述べた。

初期のキリスト教と政治理論
イエスの死が神の自己犠牲であり、その前提として人間の原罪を設定することによって成立したキリスト教は政治社会に特徴的な関わりをもった。キリスト教の特徴としては、まず古典古代のギリシャ・ローマの人間観が基本的に能力の調和的発展を理想としていたのに対し、キリスト教の人間観は調和が失われ、分裂的であり、原罪を背負う矛盾に満ちた存在として捉えていたことである。人間はこのような堕落から自力では逃れようがないのであるが、ただ神の慈愛を受け入れ、それを信仰する生活に入れば罪から解放されるとされた。キリスト教においては現世は信仰ほど重要なものではなく、現世の政治は信仰とは基本的に無関係であると考えられた。しかしキリスト教の教会組織は「最終的手段」(ultima ratio)としての暴力装置を持たなかったのにも関わらず、一個の政治社会であった。教会は現実社会に対して強固な統制力を持っていたが、その根拠は決定的に思想・信仰にあった[5]。

原始教会(パウロ)
キリスト教が民族宗教としてのユダヤ教の限界を超え、普遍宗教として成立するのに貢献したのがパウロであった。パウロは現世と信仰を区別し、ローマ皇帝などの権威は神によって存在しているとしながらも、その政治権力自体に価値があるわけではないとした。キリスト教徒がこれらの権威に服するのは良心という最高の価値にしたがうからであると述べた。

両剣論
ローマ帝国においてキリスト教が国教とされると、世俗の権力と教会の関係が徐々に大きな問題となった。これを説明する理論として両剣論(theory of two swords)が現れた。剣とは権威を意味し、5世紀末の教皇ゲラシウス1世が教義の問題で皇帝と対立したときに作り出された。この考えによれば、皇帝は物質的な剣(gladius materialis)を持つが、教皇は精神的な剣(gradius spiritualis)を持っており、ともに神から別々に下されたものであり対等である。この2つの権力は相補的な性質を持っており、皇帝は永遠の生命のために司教を必要とし、司教はこの世の秩序を維持するために皇帝の力を必要とすると述べた。ここに現実社会は皇帝の支配する世俗の帝国と教皇を頂点とする教会に二分されて把握され、それぞれ固有の法(ローマ法とカノン法)をもち、それぞれ固有の行政組織・裁判権をもつと主張された。

教父哲学(アウグスティヌス)
中世の政治思想に大きく影響を与えたのがアウグスティヌスとその著作『神の国』(413年-426年)である。この著作は当時北方からのゲルマン民族の侵入によって危機を迎えていたローマ帝国において、キリスト教に対する批判が起こり、それを反駁する内容である。彼は現実世界を「地の国」とし、その世界はいずれ崩壊するもので、永遠の「神の国」とは本質的には異なるとした。そのうえで「神の国」は「地の国」と重なり合って歴史を構成しているが、その地上に現れている「神の国」はキリスト教信者の共同体であって、しかも教会と同義ではない。アウグスティヌスは教会も基本的には「地の国」の政治社会に過ぎないと述べるが、それを通じて「神の国」に入るという意味では教会のほかに救いはないとした。アウグスティヌスはキケロの正義論を引用しつつ、キケロのいう正義は信仰なしには存在せず、現実のローマ帝国が没落していくのは正義を欠いているためだと結論づけた。

中世国家と政治理論
中世国家の特質は地域国家であることがあげられる。中世国家を支配する国王のもとには国境も国土も国民も存在せず、その支配は契約関係に依拠するのであり、なおかつその契約関係は流動的であった。次に国王だけでなく領主も軍事力を持っており、ここでは現代社会において国家の権力を強力ならしめている暴力の独占がおこなわれていなかった。したがって国王の公権力の性質と領主の私権力の性質は暴力に関していえば本質的な区別は存在しなかった。さらに法についても、伝統や慣習が重んじられた。そこには「古き良き法」としての慣習と支配関係を規定する契約があるのみで、国王の権力もそれを改変することはできなかった。国王は契約によって支配したが、同時に契約に支配されていたのである[6][7]。最後に中世社会における教会の絶対的な精神的支配をあげることができる。教皇は場合によっては国王以上の権威を持っていた。皇帝としてのドイツ国王も中世国家の上位に存在する理念上の帝国(インペリウム)の統治者とされたが、実質に乏しかった上、教皇の支配する教会のほうがより実質的にヨーロッパ世界を統合していた[8]。中世社会では権力は世俗の国家・王権に、権威は教会に二元化されており、このことがのちのヨーロッパの政治社会を大きく規定した。

神学の優位
中世西ヨーロッパの政治社会はその全体を覆う世俗の権力を持たなかったが、キリスト教共同体としては教会の精神的な支配のもとに統一されていた。このことは人々の現実生活が宗教によって制約されることとなった。人間の精神的営みとしての文学、絵画、音楽などの芸術・文化領域は教会にしたがい、学問も教義の権威に服することになった。学問においてまず優越されるのは神についての学問、神学であり、哲学をはじめとする諸科学は神学に従属した。

コモン・ロー
中世に成立し、近代政治原理に影響を与えたものとしては、イギリスにおいて成立したコモン・ローをあげることができる。コモン・ローとはイングランド王国の一般慣習法という意味で、11-12世紀ごろから地方ごとに存在していたゲルマン慣習法を統合して成立した。このコモン・ローは人為的に変更不可能とされ、13世紀には法曹院(Inns of Court)が成立し、裁判活動や法曹家の養成において支配的な役割を果たすようになり、コモン・ローは法曹院を通じて整理・体系化された。ここに君主の権力に対する「コモン・ローの優位」が確立され、コモン・ローは王権神授説に基づくステュアート朝の絶対王政に対する有力な対抗理論となり、名誉革命後の権利の宣言・権利の章典により王権神授説は否定され議会主権の原理に結びついた。裁判所はコモン・ローに基づくのみならず、議会の制定した法律にも従うべきことが規定され、「法の支配」が確立された。以後この思想はイギリス法体系の基本原則となった。一方で「コモン・ローの優位」の思想は独立前後のアメリカにも大きな影響を及ぼし、しかもここではむしろ議会の制定した法律に対する有力な対抗理論となった。それは議会の立法権に対する司法権の優位の主張に結びつき、1803年には違憲立法審査権の確立という形で成果となって現れた[9]。




近世政治思想

イギリス功利主義とフランス実証主義
19世紀のフランスでは進化論に基づき、フランス実証主義が成立した。これは秩序・進歩・友愛によって人間知性が進化していると述べたコントを代表とする、社会を肯定的に見るものであった。一方イギリスでは古典経済学に影響されて功利主義思想が流行した。この思想の初期を代表するベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉に代表されるように、道徳的規範や法規範の根拠を幸福の追求に求めるもので、その根底にはアダム・スミスが論じたような予定調和的な経済観があった。続くミルはベンサムが幸福を物質的なものとして捉えていることを批判し、精神的な幸福としての道徳を政治の基礎とした。彼は『自由論』を著して言論の自由を訴えたが、その背景には人間の能力が本来的には調和的に発展するものであるという人間性に対する信頼があった。彼の『代議制統治論』は代議政体が最善の統治形態であることを主張するものであるが、同時に現実にさまざま存在する統治形態は環境的条件などにより相対的価値を持っているとし、ただ民主主義政体であればよいというわけではないと述べた。ミルは女性の解放には熱心で、婦人参政権運動などにも積極的に関わったが、反面労働者階級による「階級立法」を警戒し、労働者問題には消極的であった。イギリス功利主義もフランス実証主義も経済的自由主義、自由貿易を主張するものであった。



近代伝統的政治学
近代的な政治学理論はドイツにおいて国家学という形で発達し、そこでは政治社会は国家として捉えられた。19世紀のイギリス・アメリカでは功利主義・フランス実証主義・国家学の影響を受けて多元的国家論が唱えられ、国家と社会を区別し、両者を包含する形で政治社会を捉えようとする思潮がおこった。

国家学と新カント学派
国家学は主権概念と結びついた近世自然法思想の影響のもとに、国家有機体説[10]とドイツ観念論の国家主義的な傾向を受けて成立した。また国家学においてはヘーゲルに基づいて社会の道徳的価値は国家に優越性が認められていた。19世紀末ドイツでは、新カント学派が登場し流行した。新カント学派は自然を対象とする自然科学と人間を対象とする人文諸科学はその方法論においても区別されるべきと述べていた。この考え方によれば、人文諸科学は対象領域において重複しているが、それぞれ独自の方法論を持っているために、それぞれの学問分野が個別に成立しうるものであるとされた。この考えはのちに国家学から政治学を独立させる根拠となるものでもあるが、この時代の実際の研究者の間では政治学を国家学の一分野とする見方が一般的であった。

国家学はアルトジウスの自然法理論を先駆とし、ヴォルフによって基礎が整えられた。続くブルンチュリは『一般国法学および政治学の歴史』を著し、国家学を体系づけるとともに、学説史と結びつけた。19世紀ドイツを代表する国家学者であるイェリネックは、国家学は政治制度を研究する「国家社会学」と憲法・行政法・国際法などを研究する「国法学」に分け、政治学は国家の目的についての規範的研究と位置づけていた。彼は新カント学派に影響されて、国家を法的組織(形式)と社会形象(当為)の二面性をもつものとして把握すべきと唱え、国家の形態は多様であり、類型的に把握すべきだと論じた。これに対し、ケルゼンは当為と形式は関連性がない別個の領域で、国家は法秩序として一元的に捉えるべきであるといい、形式を重視した純粋法学を提唱した。彼はまた価値絶対主義が政治的絶対主義を生み、価値相対主義は政治的相対主義=寛容を生むといい、民主主義は価値相対主義に基づくと主張した。ケルゼンは道徳と法はその存在領域が異なるためにその対立は存在せず、政治的な義務としての法規範が、倫理的な義務としての道徳規範と対立することはないと述べた。シュミットは政治の本質は決断であると述べ、国家における決断の主体として主権を定義し、主権国家を擁護した。現実的には優柔不断な政権よりはナチスの独裁のほうがよいとして、ナチスとその拡大政策の支持につながった。彼は『ヴァイマール・ジュネーヴ・ヴェルサイユとの対決』を著し、ワイマール体制を批判していたのでそれもナチスの目的と合致するものであった。ヘラーは国家学を政治学の一分野とし、従来国家学に政治学が含まれてきたことを批判した。またワイマール体制を敗戦の結果強要された政治体制でドイツの国民性に適合していないとする見方があったのに対して、ワイマール体制はドイツの近代政治思想の正統を継承するものであると擁護した。しかしナチスが台頭すると、ナチスはワイマール体制の打破を目的としていたので、ワイマール体制を擁護したヘラーは亡命を余儀なくされた。


多元的国家論
国家学が政治社会を国家とほぼ同義に見ていたのに対して、アメリカやイギリスでおこった多元的国家論は国家の役割をより限定的に見るものであった。コールは社会を全体性に基づく柔軟なコミュニティと、その内部に存在する目的性に基づくアソシエイションに分類すべきと述べた。コミュニティは世界、国民、村落といった柔軟で内容も多様な社会で、その内部に会社、結社、組織などといった目的性をもった社会としてのアソシエイションが存在しているとした。これによれば政治社会は国家学のように国家の利害に基づいて成立するのではなく、多様なアソシエイションの利害の総合の上に成り立つものであるとされた。つまり政治学の対象を国家だけでなく、社会のさまざまな集団に向けるものであった。ラスキはコールの論に基づいて、国家はアソシエイションの一つに過ぎないのであるから道徳的優越性を持つものではないとして、政治学が国家中心に語られるのを批判した。


マルクス主義政治学
一方で経済的な研究から階級主義的な歴史観を提唱したマルクスは、社会を階級に基づいて把握することを提唱し、社会・国家の政治闘争を階級間の利害対立に還元する見方を示した。

近代社会政策思想(ドイツ自由貿易学派と講壇社会主義)
19世紀に入ると社会政策も本格的に学問の対象とされ、主に経済学の影響を受けて社会政策思想が成立した。まず1858年にイギリスの功利主義・自由貿易主義に影響されて、ドイツの自由主義者が「ドイツ経済者会議」(Kongress deutscher Volkswirte)を結成、それを根拠として「ドイツ・マンチェスター学派」(das deutsche Manchestertum)が形成された。彼らは貿易自由政策を重視するよう主張するもので「ドイツ自由貿易学派」とも呼ばれ、その中心人物はプリンス・スミスである。当時ドイツを中心として中央ヨーロッパ諸国はドイツ関税同盟を形成していたが、この時期北東ドイツの農業地帯および北海沿岸の港湾都市は経済上イギリスとの結びつきが強く、彼らはその経済的利害を代表していた。具体的にはドイツ関税同盟に代表される保護関税政策を拡大することに反対し、むしろ不必要な高率の保護関税を廃止すべきと論じた。一方でドイツ国内の急速な工業化・先進化はとくに労働問題を先鋭化させ、労使関係の調整が必要とされていることは明らかであった[11]。講壇社会主義は主にアカデミックな立場から、国民経済を、その崩壊を招きかねない労働問題・社会問題の激化から救出することを第一の目的としていた。この学派は「社会政策学会」という機関を持ち、代表する論者はシュモラーおよびブレンターノ、ワグナーであった。彼らはまず経済的な自由主義の道徳的価値が絶対であるとする自由貿易学派の主張に対し、社会政策に関する学問は科学的でなければならず、したがってそれはあらゆる道徳的価値を排した、客観的な学問にされるべきだとして批判した。彼らは労働者を保護すべきだと論じたが、それは倫理的な理由によるのではなく、産業社会の進展に必要不可欠な負担であると論じた。したがって講壇社会主義は労働条件の改善などの社会改良を主張しながらも、一方で労働運動にはむしろ否定的であった[12]。




現代政治学の成立

先駆
イギリスでは19世紀末から20世紀初頭にかけて、工業化と都市への人口集中が進み、労使の階級対立やマスコミの発展により政治状況が急速に変化した。このような状況を受けて1867年と84年の選挙法改正がおこなわれ、労働者階級に広汎な選挙権が与えられたにもかかわらず、労働者の議会進出は緩慢であった。選挙権の拡大に伴って投票率は低下し、政治腐敗や政治的無関心が蔓延し、候補者の当落は政治的業績や理念よりも容貌や演説の巧みさ、広報活動や運動のテクニックに影響されるようになった。ウォーラスは民主主義が制度として確立されているのにも関わらず、実際の状況がこのように民主主義の本質とはかけ離れていることを危惧し、1908年現代政治学の先駆的著作『政治における人間性』を発表した。同年アメリカの社会学者ベントレーは当時アメリカで流行していた制度論的政治学を「死せる政治学」(Dead Political Sciences)と批判し、『統治の過程』を発表した。彼は政治とは利益を巡って形成される党派間対立と統治機構によるその調整過程であると述べて、制度的研究よりも党派と政治の過程を重視すべきと述べた。しかしベントレーの主張は政治学界では当初あまり重視されず、むしろ当時個別の学問として発展し始めた社会学に影響を与えるものだった。

シカゴ学派
ウォーラスの研究に依拠しつつ、心理学や政治的多元主義の影響を受け、1920年代末にシカゴ大学のメリアムとラスウェルを代表とするシカゴ学派が形成された。メリアムは経験的研究では成果をほとんどあげることはなかったが、問題提起と後進の育成に努力し、彼の周辺では政治学の基本的目標と方法について活発な議論が行われた。メリアムは1925年『政治学の新しい視角』を発表し、政治学の研究方法に心理学と統計学の導入を訴えた。メリアムを創始者とするシカゴ学派の目的は、政治学の科学化であった。



現代政治学の展開

行動科学政治学
1950年代にはいると、シカゴ学派の研究を基礎に政治学は新しい局面を迎えた。行動科学的アプローチという新しい手法が導入され、「行動科学革命(行動論革命、behavioralist revolution)」と呼ばれるほどのインパクトを与えた。

行動科学政治学の先駆は1945年、サイモンによる『経営行動--経営組織における意志決定過程の研究』であり、同書において「行動」「意志決定」「組織」といった用語が使われ、政治学に定着した。サイモンは多才で学際的な性格の研究者で、社会学や経営学など隣接諸科学とも積極的に学的交流をはかり、その結果社会学においてもこれらの用語が定着した上、サイモンによって現代行政学が基礎づけられ、政治学からの独立の契機となった。次に、キーは『南部の政治』を著して政党研究の先駆となり、トルーマンはベントレーの政治過程論を見直した。アーモンドは政治システム論を比較政治学の分野に導入した。彼ら行動科学政治学の開拓者達はいずれもシカゴ学派の系譜に属する研究者であった[13]。

行動科学政治学は、政治過程の分析と比較に関してこれまでにない成果を挙げた。代表的な論者であるイーストンは政治現象を捉える一般的な枠組みとして、政治システム論を構築した。これは政治現象を政治システムへの入力・政治システムからの出力・フィードバックの総体と捉えるものである。政治システム論は特定の、或いはある政治社会に固有の制度を乗り越えて政治現象のあり方を分析できる画期的な一般理論であった。こうしたアプローチは制度が未発達なところでの政治現象の分析には特に有意性を持つ。さらにアーモンドは政治システム論を発展させ、比較政治学に適応した。すなわち、社会学者パーソンズの構造=機能分析を政治システムに応用するとともに政治システム論を基に政治文化論を提唱した。これにより従来の制度的比較を超克し、政治過程に関してのより意義ある比較が可能となったわけである。ダールはポリアーキーなどの概念を用いて行動科学政治学の視点からデモクラシーや政治的多元主義を説明した。国際政治学にシステム論を応用しようと試みたカプランや、ドイッチュも有力な論者である。


脱行動科学の動き

合理的選択理論
1950年代以降、行動科学政治学か主流となる一方で経済学の方法論を政治学に導入することを端緒として、これまでとはまったく異なるアプローチが登場した。それらを総称して合理的選択理論と呼ぶ。合理的選択理論に共通する特徴は、ミクロ経済学のいくつかの仮定を受け入れるということである[14]

他方経済学においては非市場的意思決定の研究が既に行われていた。第二次世界大戦後発達した公共経済学の分野がそれに当たる。他の経済学における研究は後に合理的選択理論のうちでも特に社会的選択理論と呼ばれる分野に結実した。いわゆる集合的意思決定に関する研究であり、その1つの記念碑的研究の成果がアローの一般可能性定理である。アローの研究は『社会的選択と個人的評価』(Social Choice and Individual Values,1951)に纏められている。

政治学における合理的選択理論の先駆となる研究は、ブラックによりなされた。ブラックは社会的選択理論の研究を行う一方、選挙における有権者や政党を研究対象とし中位投票者理論を構築した。しかし、合理的選択理論を政治学において確立する契機となったといえるのはタウンズとその著書『民主主義の経済理論』[15](1957)である。ダウンズはブラックらの議論を空間モデル(一次元空間モデル)などを駆使して精緻化し、体系付けた。これ以降、有権者・政治家・政党・議会(立法府)・行政府・官僚等の政治的アクターの分析が本格化した。

ブキャナンとタロックによる『公共選択の理論−合意の経済論理』[16](1962)以降の研究は、これまでのケインズ経済学、及びケインズの理論に立脚する経済政策の正当性に疑問を投げかけるものであった。すなわち市場の失敗の解決や公共財の供給のためには政府の介入が必要とされ、実際に政府の介入により効率的な資源分配、公共財の供給が行われるという見解が従来の主流であった。ブキャナンらは財政学の視点を交えて政治過程における多様なアクターの相互作用の結果、政府による介入がかえって非効率につながる場合があることを明らかにした。[17]。

この他の合理的選択理論の知見としては、集合行為論が挙げられる。オルソンは著書『集合行為論』[18](1965)でアクターの合理性を仮定した場合、どのように集団が形成されるかを明らかにした。これ以降、集合行為や公共財の供給におけるフリーライディングなどの問題が政治学の場で正面から扱われるようになった。またライカーは『政治的連立の理論』[19](1962)でゲーム理論を政治学の分析に応用した先駆者となった。このようにライカーはゲーム理論をはじめとしてフォーマル・セオリー[20]を使い合理的選択理論を精緻化、ほぼ完成に導いた。ライカーは合理的選択理論をベースとした実証政治理論(Positive Political Theory)の創始者とも看做されている。

現在では合理的選択理論は公式・非公式の様々な制度の分析、及び制度とアクターの相互作用の分析に取り組んでいる。これがいわゆる合理的選択新制度論(合理的選択制度論)である。

制度の再発見:新制度論

現代の政治哲学・規範的政治理論

政策科学の分化
シンクタンクは「考える戦車」という意味で、第2次世界大戦中に使われるようになった言葉だとされている。今日的な政策研究機関としてのシンクタンクの草分けは1916年に設立されたアメリカの政府調査研究所を前身とする1927年設立のブルッキングス研究所に求めることができる。ブルッキングス研究所は第2次世界大戦後のヨーロッパ復興計画である「マーシャル・プラン」の策定に深く関与しているとされている。ブルッキングス研究所がリベラルな政策機関だったのに対し、保守主義が対抗して育成したシンクタンクがアメリカン・エンタープライズ公共政策研究所である。前身は1943年にビジネス研究を目的として設立され、1960年に現在の名称に変更された。シンクタンクは具体的な政策形成において民間の意見を反映させることを目的としている。ここに、より実際的な政治活動としての政策形成を対象とする政策科学が成立した。アメリカではすでに広汎なシンクタンクの存在、政策科学を扱う大学のシンクタンク化がすすみ、政策を産業とする構造ができあがっている。日本では2004年以降国立大学に次々と公共政策大学院が設立されているが、政策科学が定着するにはなおしばらく時間がかかると見られている。




憲法(けんぽう)とは国家の組織や統治の基本原理・原則を定める根本規範をいう。


日本国憲法の原典歴史的に見ると、憲法は、国家の組織に関する根本規範から、基本的人権保障に関する規範を含むものに発展してきた。近代的な立憲主義においては、憲法の本質は基本的人権の保障にあり、国家権力の行使に枠を嵌めて、無秩序で恣意的な権利侵害が行われないようにするためのものであるとされる。

なお、現在の日本の憲法については「日本国憲法」を参照。

語源
「憲法」とは、ドイツ語の「Verfassung」、フランス語の「Constitution」、英語の「Constitution」に対する訳語である。

元来日本にはこれに相当する概念がなく、もともと漢語として存在していた「憲法」(cf:十七条憲法)という語を当てることが明治期に考案され、これが定着したものである。穂積陳重の『法窓夜話』によれば、明治6年に、箕作麟祥がフランス語の「Constitution」に「憲法」なる訳語を当てたのが始まりという。当初は、「国法」、「国制」、「朝綱」など、さまざまな訳語が使用されていたが、時代を経るにつれて「憲法」が定着してきた。但し、「国制」という訳語は、法史学において現在も用いられる。

もともと、「独Verfassung」等の原語は、もののあり方とか状態とかを指す語であり、そこから転じて国家のあり方を示すようになった。つまり、もっとも基本的な意味は、国家のあり方という意味である。日本語の「憲法」には、「法」という概念が既にくみこまれているため、このような事実的なフェアファッスングの概念をともすれば捉えそこなうことがあるので、注意が必要である。法史学で「国制」の語を用いるのは、そのような事情を斟酌した結果であろう。なお、1995年改正前の刑法77条(内乱罪の規定)には「朝憲」、改正後の同条には「国の統治機構」という語が用いられている。1935年の大審院の五・一五事件判決では、朝憲紊乱とは、国家の政治的基本的組織を不法に破壊することであるとされている。

憲法と国法
日本では「憲法(独Verfassungsrecht)」と呼ばれる科目であるが、ドイツでは通常「国法(独Staatsrecht)」と呼ばれる。国法とは、1.国家の基盤を規律する法規範、2.最高国家機関の構造と活動を規律する法規範、3.市民の国家に対する権利を規律する法規範を総称する概念である。日本の憲法学が、対象を、1.総論、2.統治機構、3.基本的人権の三つに分けて論じるのと趣を同じくしている。なお、日本でも、一部で「国法学」の語を用いることがあるが、憲法学のなかで解釈法学的でない部分、あるいは比較憲法論のような内容に重きをおいていることが多いようである。

憲法の概念
憲法の概念を整理したものでもっとも有名なものは、カール・シュミットの『憲法学』(Verfassungslehre)であろう。彼は、憲法の概念を、絶対的な意味、相対的な意味、実定的な意味などに区別した。絶対的意味とは、更に細かく、1.公共体の秩序そのもの、2.国家の政治体制、3.国家の統合のあり方、4.根本規範を区別することができる。1.〜3.は、上記の事実的な意味に相当する。特に、3.は、ルドルフ・スメントの統合理論に依拠した憲法概念であり、戦後の憲法学に大きな影響を与えた点で注意を要する。次に、相対的な意味とは、形式的な意味の憲法(後述)、すなわち、憲法と呼ばれる文書を指す。第三に、実定的意味の憲法とは、憲法制定権力により行われた政治的な根本決定を指す。憲法制定権力によりつくられた権力(憲法を改正する権力)は、この根本決定に反することはできない。つまり、このような根本的決定は、相対的憲法においては、改正禁止条項として現れるのである。

実質的意味と形式的意味
通常、憲法という概念により指されているのは、規範としての「憲法(Verfassungsrecht)」である(事実的な意味の憲法を指す場合には、「国制」「政治体制」などという語を用いるのが一般的である)。日本で普通に行われている分類は、憲法を実質的な意味と形式的な意味に区別するものであり、ドイツの通説を受け継いだものである。憲法に著作権はない。

実質的意味の憲法とは、内容により憲法かそうでないかを区別するものである。すなわち、国家の根本・基盤に関する法規範は、すべて実質的意味の憲法に含まれる。

形式的意味の憲法とは、形式的な標識によって憲法かそうでないかを区別するものである。すなわち、憲法という名のある文書(憲法典)を指す。形式的意味の憲法をもつのが成文憲法の国であり、これがないのが不文憲法の国である。

両者の憲法の意味は必ずしも重なるわけではない。例えば、議会法などは、国家の根本・基盤に関する法規範であるから実質的な意味では憲法に属するが、形式的な意味では、「憲法」という名を持っていないので、憲法ではない。連合王国は「憲法」と呼ばれる文書がないから、形式的な意味では憲法が存在しないが、実質的な意味では、議会法、大憲章(マグナ・カルタ)などの憲法が存在するのである。

実質的意味の憲法の概念がなぜ必要かということを説明するためには、憲法学の対象は何かということを考えてみればよい。憲法学とは国家を法的に認識する学問である。このとき、「憲法」という名前がついていないという理由で、皇室典範・皇室経済法・国会法・内閣法・地方自治法・裁判所法・国旗国歌法などを対象から外してしまったら、国家を法的に(少なくとも正確に)認識することはできなくなる。つまり、実質的意味の憲法とは、憲法学の対象を画する概念である。この結果、憲法の法源は、ひとり憲法典のみではないことになるのである。

固有の意味の憲法と立憲的意味の憲法ないし近代憲法
実質的意味の憲法に着目したとき、統治の根本規範という意味での「固有の意味の憲法」(用語法として不適切との説もあるがすでに定着している。)は洋の東西・時代を問わず存在するものであるが、特に西欧近代において現れた憲法の概念というのも存在する。これが、立憲的意味の憲法である(立憲的意味を有しない固有の意味の憲法としては,前近代のフランスにおける王国基本法などが典型としてあげられる。)。カール・シュミット的にいえば、理想としての憲法である。これは、権力分立や人権保障など特定の理想・価値を謳うものしか憲法として認めないという態度であり、特にフランス革命でアンシャン・レジームを打倒するイデオロギーとして機能した。もともと西欧近代に特殊であるこれらの価値が、他の文化圏の西欧化によって、今日では、これらの価値はいくぶん普遍性を帯びるようになってきている。日本でも、近代化に伴い、これらの価値を明治期以来継受した。現在では、少なくとも、権力の集中よりも権力の分立が優れた統治体制であり、また、人権蹂躙よりも人権保障のほうが優れた統治体制である、という程度のコンセンサスは成立しているものと思われる(これは必ずしも当然のことではない)。しかし、全面的な西欧近代価値の受け入れには、明治期以来、批判的な見解も根強く存在し、それは、紛れもなく、法とは社会の規範意識であるという事実の表れである。日本国憲法など現在の主な憲法はほぼ全て立憲的意味の憲法であるとされる。

憲法の法源
法源論とは、法というものがどこから生じるかという話である。法文化や時代の違いによって、法源は変わる。日本人は法源というとすぐに成文法、特に国家の制定法を思い浮かべるが、これは、日本が近代的な大陸法の法文化を享受しているからである。しかし、英米法系諸国においては、いまだに判例が主たる法源であると考えられているのである。

日本国の憲法の成文法源は、第一に憲法典(日本国憲法という文書)である。しかし、実質的な意味の憲法の箇所で述べたとおり、憲法法源は憲法典に尽きるわけではない。皇室典範、皇室経済法、国事行為の臨時代行に関する法律、国会法、公職選挙法、政治資金規正法、政党助成法、内閣法、国家行政組織法、裁判所法、最高裁判所裁判官国民審査法、裁判官弾劾法、裁判官分限法、地方自治法、国旗国歌法、元号法、国民の祝日に関する法律、などの法律も憲法法源である。衆議院規則、参議院規則、最高裁判所規則などの自律的規範も憲法法源となる。また、日本国の領土を画定する国際条約(樺太・千島交換条約や日本国との平和条約)も、憲法法源となる。

なお、皇室典範は、明治憲法体制においては、大日本帝国憲法と同位の法源であると考えられていたが、現在では法律と同位と考えられている。明治憲法体制においては、天皇が皇室の家法として皇室典範を制定していたのに対し(皇室自律主義)、日本国憲法においては、「国会の議決」によって制定されることとなったからである(日本国憲法2条)。条約については争いがあるが、一般的には憲法と法律の中間位の序列を有すると考えられている。

慣習法が憲法法源となりうるかに関しては、議論がある。これを議論するには、慣習法を、1.憲法の欠缺を埋めるもの (extra constitutionem)、2.憲法の規定を具体化するもの (intra constitutionem)、3.憲法の規定に反するもの (contra constitutionem) の三種に分けなければならない。このうち、1.と2.については、憲法法源となりうるとして何の問題もない。問題は3.の反憲法的慣習法である。なぜ問題となるかというと、これは正規の憲法改正手続を潜脱するからである。この問題に関して、学説は対立している。

憲法の解釈と改正
成文法源は、慣習法と異なり、明確であり安定的であるという特長を有するが、そのために、歴史の変遷による事情の変更に、当然についていくわけではないという短所を有する。このため、成文法源については、法規範と現実の間隙を埋める作業が必要となる。それには、解釈と改正の二つの手法がある。解釈は、裁判官その他の法律家が、拡大解釈・縮小解釈・反対解釈・類推解釈などの方法を用いることにより、成文法源の意味内容を実質的に変更して、成文法源を現実に適合させることである。これに対し、改正は、改正されるべき法源の制定手続を経ること(つまり、アクトゥス・コントラーリウス (actus contrarius) を制定すること)によって、旧い法源を改廃することである。

解釈は、事案の内容に適した形で臨機応変に行えるという長所を有するが、民主的正統性に問題がある。これに対し、改正は、正規の手続を経るために民主的正統性を完備するが、複雑な手続を必要とするために迂遠である(そのため、改正が必要でも抛っておかれることが多い。このため、解釈が必要となる)。

憲法の解釈
憲法に解釈が必要なのは、時代の要請に応えるためという理由のほか、憲法の欠缺を埋め、また、憲法の規定を事案に沿って具体化するという理由からである。

人権の特徴は、

人間が人間であるということを根拠として発生するものである点。(ヨーロッパで最初に主張されたときは神賦とされた。)
その権利を持つこと、自由に行使しあるいは保留することが当然であり、自然である点 (これは啓蒙主義時代の人権が自然権と呼ばれたことに由来する。封建制度における階級ごとに異なる制度的権利と対比された。)
の二つにある。

ホッブズの最初に唱えた社会契約説によれば聖書に記述されている楽園(原始社会)においても(自然に)存在した権利である生命権と自由権が自然権とされる。このような平和な無国家状態も人口の拡大とともに紛争が必然となる。この混乱を避けるために個人は国家主権(国王)に対して自然権を完全に放棄し絶対王政の国家を確立すべきであると主張された。これに反発したロックの社会契約説によれば個人は人権を守るために人権を国家に委託するのであって国家が人権を侵害する正当性はそれに属する個人の人権や私権を保護するために存在するとされた。よって人権を不必要に侵害する暴政に対して人民は革命の権利を有すると主張された。ちなみにロックは原始社会にも個人所有が存在したと主張し、財産権を生命権と自由権に継ぐ自然権とした。彼が経済自由主義の始祖とされる理由である。どちらにしてもホッブズが最初に提起した自然権と社会契約説がその後の欧米政治思想の基本となったため人権は現時点での法哲学の論争の淵源であるといえる。

人権の観念の成立後も国家によって人権が侵害されたことは、歴史的にみての事実であるが、人権の国家による侵害がどの程度において許容されるかはいまだ解決されていない論争である。多くの人権侵害、場合によっては大量虐殺が国家の維持あるいは全人民の名のもとに行われたのは事実である。日本国憲法においては人権の維持に不断の努力を要するとする。しかし人権は法律上「生来」のものとされているが「絶対」のものとはされていない。ロックなどの自由主義が最初に主張されたときから権利を守るための権利の侵害は正当化されており、ロックやミルあるいはカントなどの代表的な自由主義者・人権論者が死刑あるいは戦争を条件付で肯定した理由がそれである。日本国憲法においても人権侵害は公共の利益の元に正当化されており、この場合の境界は司法の判断に任されている。

かつては、人権の根拠は自然法つまり神に求められていた。しかし、世俗主義の現代においては人権そのものが根拠・命題と自然法論では主張される。これが日本においては個人の尊厳に求められる。日本国憲法第13条の「個人の尊厳」は、この意味に解される。この場合人権の観念は憲法も含めた法律の上に位置付けられる。一方で法実証論においては人権の根拠は単純に法律(殆どの国では憲法)にあるとされる。

立法
国の唯一の立法機関であるため、憲法上の人権に関する条文などで見られる「法律の定めるところにより」「法律の定める手続によらなければ」とある場合には、国会のみが具体的な条件・詳細な規定等を定めることができる。なお、立法府としての国会がその判断において、実施細則、具体的な基準等についての決定を行政府たる内閣等に委任することはできる。ただし、この場合でも一定の制約を付することが必要とされる。

憲法は、所定の憲法改正手続を経なければ、国会だけの判断により改正することはできないが、その憲法の範囲内において、立法をなすことができるのは国会だけであり、行政府の活動については法律に従ってなされる必要があるから、行政の活動は、当然に国会の意思に縛られることになる。日本では議院内閣制をとっていることから、通常は、国会の意思と行政府を指揮する内閣の意思とは一致する傾向にある。

裁判官は法律に拘束される(憲法第76条第3項)。憲法に違反する場合には、裁判所が違憲立法審査権を行使して当該法律の無効と判断することはあるものの、法律を制定する国会の意思は、裁判を通して日本国の全てに及ぶものといえる。

行政との関係
議院内閣制
憲法は内閣に対して「行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」(第66条第3項)と定める。仮に法律に直接根拠がない行政を何らかの必要上することがあっても(外交折衝等が好例である)、国会の意思を尊重しなければならないし、しない場合には覚悟が必要だということである。その担保として憲法は第69条で、不信任決議に対する総辞職義務を内閣に課しているのである。
ここで注意すべきは、不信任という強権発動による内閣監督義務を、憲法は衆議院に課していること、そしてまた総辞職義務は衆議院が解散された時は一時的に免れるということである。こうして事実上、衆議院と内閣の関係を密接、殊によると融合せしめている点が重要である。
無論、不信任決議は最強力の責任追及手段であり、両院ともその他に質問権・大臣の出席要求権や国政調査権を持っている。
立法に関しても、議院内閣制では議員立法ではなく、内閣が施政方針に基づいて作成・提出した法案が中心になり、それらの重要法案を成立させるかどうかが内閣の信任・不信任と同じ意味を持つ。2005年の郵政民営化法案否決にともなう郵政解散が一例である。
予算承認
予算の法的性質を巡っては諸説あるが、少なくとも行政に対する国会からの統制となることは疑いない。日本の憲法上は、法律制定による行政統制と見る必要は特になく、行政過程への介入による統制と見ても、国会の予算修正権等、一向に問題はない。予算否決という強権は、日本国憲法では事実上衆議院のみに認めているが、参議院の自然成立前に予算が執行される場合は、暫定予算を衆参で議決する必要がある。
条約
条約の国内法の性質を巡っても諸説あるが、これまた少なくとも行政に対する国会からの統制となることは疑いない。条約否決という強権は、憲法では事実上衆議院のみに認めている。

司法との関係
弾劾裁判所の設置
弾劾裁判所は、憲法第64条に基づき罷免の追訴を受けた裁判官を裁判するため設けられる。

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タグ:中学公民
posted by 塾長 at 03:31 | 日記
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