2006年09月06日

教育

教育(きょういく)とは、学び(学習)の一助となることをめざして、教え続けることである。

教育を研究の対象とする学問として教育学(教育科学)がある。

概要
教育というと、こどもを育てて人間としてより良い方向へ発達するように指導・援助するという意味合いが強調されることもあるものの、教育には、こどもに対するもののほかに、一般成人や高齢者に対するものもある。人々に基礎的な教育を保証するために、日本を含む多くの国では、6〜9年ほどの義務教育が設けられており、日本においては、学校教育によって義務教育が担われている。

また、日本における教育は、知識の伸張(知育)、道徳の伸張(徳育)、身体の伸長(体育)の3つを中核として捉えられるほか、キャリア(職業など)や各種資格のための高度な知識的・技術的な事項を教え伝達する方法がとられている。

日本において教育は、行われる場に対応させて学校教育・社会教育・家庭教育の3つに大きく区分して捉えられることが多い。「学校教育」とは、学校において行われる教育のことであり、特にこどもに対しては、同年代のこども達を一定期間、定められた学校で所定の年限の間、心身の発達に応じて行われる。「家庭教育」とは、家庭において行われる教育のことであり、特に人間社会において基礎的な事項をこどもに示すことはしつけと呼ばれる。「社会教育」とは、社会において行われる教育のことであり、広義には、社会のさまざまな場において行われている多様な教育活動が該当するといわれている。

日本においては、文章で教育の根本理念を明示したものとして教育勅語(1948年(昭和23年)に排除・失効確認)や教育基本法(昭和22年(1947年)法律第25号、現行法)がある。

学校教育
学校教育については学校教育を参照。
義務教育については義務教育を参照。
学校については学校を参照。
現行の学校制度については学校制度を参照。

日本の教育政策
現代日本の教育政策においては、ソビエト連邦の人工衛星打ち上げに触発された科学技術創造立国(科学技術立国とも)、教育立国として国家戦略として教育の重要性を位置づけ、生涯学習や高度専門教育の拡大、構造改革における教育特区の認定、あるいは諸々の教育政策において国の施政における大きな軸の一つとしてとらえられている。特に法科大学院やMBAなどの専門職大学院をはじめ、知的財産が社会的に注目されてきていることからコンテンツやITを活かした教育分野の広がりも顕著であり、教育のテーマとする幅はより多様化しつつある。

そのような教育内容に対する高い要求の一方で、1970年代までの教師は、「でもしか先生」(先生でもしようか)と批判されていた。 また、教師に学力の低い子供の気持ちがわからなくなり、校内暴力など多発し社会問題になった。これへの対策として地域によっては管理教育の強化がはかられた。

このような学力偏差値教育、詰め込み教育への反省からゆとり教育への試みもなされたが、その一方、少子化で子供の数が年々減り始め大学全入時代を迎えようとする中、学力低下の問題なども深刻化していると批判されるようになり、教育におけるゆとりの持つ本来的な意義そのものが再検討されつつある。

近年は、学校でのイジメやひいては学級崩壊、体罰の禁止などの「子供の人権」を重視した法令を逆手に取った悪賢い児童による教師への嫌がらせの問題、自己中心的でモラルに欠ける教師や保護者によるトラブルなどが問題であると認識されるようになり、また、生徒児童を狙った凶悪事件の発生が多く報道されるなか(件数は統計上は減少している)生徒・児童の安全についての関心が高まっており、教育の方向性、学校の安全などについて今日の教育が抱える問題は山積している。そのため近年、アメリカに倣い、割れ窓理論に基づいた「ゼロ・トレランス方式(不寛容方式)」の導入を検討する動きが文部科学省にも見られる。

また、中華人民共和国・大韓民国などから非難されている歴史教科書問題、愛国心教育、教員による国旗・国歌の尊重をめぐる問題など国家としての価値観をめぐる問題も今日、焦点となっている課題である。

これらに加えて、就職難や人生の迷い、無気力など様々な事情からあると言われる若者のフリーターやニートが増加しているとして問題視されつつあり就労意欲の向上が政策上の課題としても取り上げられつつあるが、そもそも働くことの意味とは何かという議論や、社会世相そのものの議論、特に多様な価値観の中で個性の尊重や勝ち組、負け組をつくる世相そのものについても様々な議論のあるところでもある。今日、経済格差が広がりつつある中、教育の方向性は大きな国家戦略としての人材育成の重要性とともに、社会の幅広い層に対するサービスの拡大と社会における再チャレンジのための支援、能力開発の支援とともに個々人の持つ能力才能を多角的に評価していくことが課題となるだろう。最も重要な課題は生きる知恵としての教育、人間性を豊かにする教育であり、競争を生き抜くための人材と機会の拡大という現実的な社会の要請とのバランスの中でその方向づけが課題となる。

学校以外での教育
文部科学省が最近ようやく「教育の場」として認めた学習塾、予備校もまた学校の外にある、もう一つ別の学校であることは確かだろう。 加えて、学校の外では、スポーツクラブやボーイスカウト、ガールスカウト、図書館や博物館、美術館、社会教育センターなどでも学んだり、体験したり、映画や工作、習い事に参加ということもできる。社会人になって企業や職場での新人研修から、地位の向上に伴っての管理職セミナーや技術・専門情報のリフレッシュセミナーもあり、こうした学校以外の場所での教育を、広く社会教育という。 学校以外でも、学習塾、予備校は、最近は、文部科学省でも、「もうひとつ別の学校」ととらえるようになってきた。また、不登校の子供たちのための民間の受け皿組織、フリースクールやフリースペースもやはり学校の一種とみてもいいのでは、といった考え方もでてきた。 また、如何なる教育機関にも属せず、自宅を中心として自分の意思で勉強を行うホームスクーリングも近年増えつつある。

ただし自宅学習や一部教育機関では教育の質を選別できない子供が洗脳されたり虐待されたりする可能性もある。問題になった団体はヤマギシ会などが有名。日弁連の宗教被害対策によると子供が親と隔離された状態で教育を受け洗脳され、また隔離が同時に人質となってしまう宗教被害の実例があったと記述している。 またフランスなどは自宅学習などにセクト(カルト)的洗脳が見受けられる場合行政として救済対象とみなして活動するし詐欺的教育への予防的行政措置が活発。アメリカでは州に認可されてない非公式の大学などの卒業者が卒業後学位が何の役にも立たないことに気づいて愕然とする被害なども存在し、一概に受け入れると言う見方が成り立つわけではない。このように質の保証されないフリースクールは海千山千のものとしてみなすべきだと言う考え方もある。

高等教育の必要性 
これまでの日本の教育は、どちらかというと「キャッチアップ型」であり、誰でも等しく知識と見識と与えられるよう機会の平等に主に重点が置かれていた。しかし、国際競争が盛んになり、国家としての競争力が意識されてくる段になって、教育も重要な戦略分野であるとの認識が高まっている。すなわち能力・意欲のある人間には積極的な高等教育の機会を与えようというものである。この議論に対して、よくエリート偏重であるとか受験戦争を助長するとの論議があるが当てはまらない。現状の塾や予備校に実質的な教育を頼らなければならない現状こそ、親の所得格差が子供の教育機会の多寡に直接影響するのであるから、このシステムこそ問題である。すなわち、東大を頂点とする受験競争=高等教育へのステップではなくて、如何に実社会で役立つ人間になれるかという観点で教育システムを設計する必要がある。アメリカでは高等教育の担い手として大学院の整備が進んでいる。わが国でもこれをまねたシステムとしてロースクールなどの取り組みがあるが、まだまだ確固たる教育理念に立脚しているとはいいがたい。こうしている間にも優秀な人材は日本を捨てて著名MBAなど米国の一流大学院を目指し日夜努力している。それは東大最終目標の受験システムとはあくまでも別次元となってしまっており、ここでも教育行政の方向性が大きく問われている。

教育のスタイル
近年まで教育は子供や他人に教える、あるいは教えられるというスタイルが主であった。教師、親のシナリオに従って学ぶというもので、20世紀初頭の「児童の世紀」がスローガンになった大正自由主義教育運動では、それを旧教育と呼んだ。当時、子供の関心、自発性、創造力にシフトすることこそが、新教育だと考えられたわけである。

最近では更に「自らデザインし、自ら学ぶ」、「自分で学ぶ」という行為も教育の本来の姿と強調されるようになってきた。これは、子供に限らず、成人した大人や高齢者、主婦についてもいえることで、その意味ではユネスコのポール・ラングランが提唱した生涯教育(ただし、これは最近は、生涯学習と言い換えられることが多くなった)の理念につながる。

合わせて、ローマクラブ(1970年設立)の第6報告書「限界なき学習」(1980年)が出てから、学習は個人単位のものだけでなく、集団や社会、国家という単位でも過去の失敗や先例から学習するし、できるはず、国際的な民族、国家間の紛争や経済支援も互いにその原因と背景を学ぶことにより解決の方途を探ることが出来るという言い方もされるようになってきた。今日、国連やOECDなどの報告の中には、この意味で教育、学習という単語は散見されるようになっている。学校教育という意味とはもうひとつの別の教育の意味であるが、これは国際理解教育(World Studies)という名前で小中学校の教育活動に既に取り込まれている。

米国のMBAに見る実学型高等教育 
最近の経営書で盛んに目立つようになってきたのは、社会の変革の担い手としてアメリカを中心とする大学院のMBA取得者が注目されていることである。彼らの多くは1980年代の日本のバブル景気によって企業派遣で学位を手に入れたものが多いが、その活躍ぶりは目を見張るものがある。最近では私費にてMBA留学するものも増加しており、このような個人の経営能力で社会の価値創造を担おうとする若者が増えていることは喜ばしいことである。

彼らの活躍の源泉となるものはMBAという学位がそのカリキュラムの中に激しいインタラクティブ性を兼ね備えているからであることに他ならない。MBAでは教科書を勉強するというより、自分の頭で考え経験を生かし、いろいろな人種の人間とぶつかり合いながら、個人の能力を認めてもらおうと努力する。そのプロセスは企業家や大企業のマネージャーが回りの人間を説得しながら目標を達成しようとする実社会でのプロセスそのものといってよい。そしてどのように事業を遂行し、社会に貢献しうる価値を創造できるのか、納得ずくで行動に移していくのである。これこそまさに経営であり、経営学の真髄であろう。MBAを学歴のひとつとして捉える向きがあるが、決してそうではない。学歴とは、本来「何を勉強してきたか」を保障するものであり、「なにができる可能性があるのか」を表現するべきものである。この点において、日本では学歴があたかもネガティブな個人情報であるように捕らえられてもいるが、「何を」勉強してきたかは立派な人間の資本となる筈である。今後は幾多の個人の経歴に拘らず、「何を」勉強したのか、個人の立派な資産として積極的に開示するべきであろう。

日本の教育の問題点 
日本の教育は以下のような点において、国際的に後れていると言われている。

1. コミュニケーション能力の育成を軽視している。

 どんな職業に就いて社会で働くようになろうとも、コミュニケーション能力は社会生活における必ず重要な基礎になり、社会的地位とコミュニケーション能力の高さが比例する傾向にあるにも関わらず、一部の現場を除いては日本の教育現場でコミュニケーション能力を積極的に伸ばす授業は行われてはいない。
 欧州特にフランスなどでは、「卒業するまでにすべての子供が、自分が頭で考えていることを話し相手に正しく理解できるよう伝えるという、相手に正確に分かりやすく説明することができる基礎的コミュニケーション能力の育成」という国語教育が、小学校での一番重要な教育目標になっている。
 アメリカではディベート教育が、教育の重要なターゲットに設定されている。
 脳医学的には、言語能力がもっとも伸びる幼少期〜小学生低学年の時期に基礎能力を伸ばすことが望ましい。
 また、近年において少子化が大きな日本の社会問題になっており、実に様々な多岐にわたる要因が重なってその原因となっているが、「日本人男性のコミュニケーション能力の低さがその1つとなっている」という指摘がある。現代の自由な恋愛市場において、コミュニケーション能力の低いとされる男性は、女性との関係において、
女性のコミュニケーション力 > 男性のコミュニケーション力
という構図になりやすく、そのような場合に女性側から見ると、「自分よりコミュニケーション能力の低い男性には、あまり魅力を感じることが出来ない」とされる。結果的に男性は、好意をもたれることが少なくなり、婚期が遅れやすく、コミュニケーション能力が低い男性の人数分だけ、それらが積み重なって少子化という社会現象を引き起こす原因の1つとなっているという見方がある。ちなみに女性と比べて、男性は訓練をしないとコミュニケーション能力が伸びない傾向があるとされ、その能力が伸びやすい幼少期に、いかにその基礎的な能力を培うかが重要となる。しかし、男女関係については、コミュニケーション能力を鍛えても、結局は相手方の感情に左右されるため、必ずしもそれを伸ばす努力が、結果につながるとは限らない。

2. 日本の教育現場における英語教育と実践的コミュニケーション英語との乖離現象。

 日本の受験勉強において英語のテスト点数がいくら良くても、実際に外国人と英語でコミュニケーションを行う際には、たいしてその「勉強」が役に立たないという現実。
 これらの実践的な英語教育の欠如が、日本における各種英会話マーケットの市場を下支えしているという皮肉な社会経済現象を生んでいる。
 一般的に、男性よりコミュニケーション能力がもともと高い傾向にある女性の方が実践的な英語の学習能力が高いことから、まずは基本的なコミュニケーション能力を高めることが、英語のコミュニケーション能力を育む土壌になると考えられる。
 ただ言語学的に英語と日本語は、中国語や欧州の言語(フランス語等)などと比べ、英語圏のネイティブスピーカーが日本語を習得するまでの総計時間・日本人が英語を習得するまでの総計時間が一番長い(そもそも言語習得における言語間の相関関係が最も悪い)という研究報告もあり、一概に日本の教育方針が間違っている/教員の能力が劣っているとは言えないという説もある。
3. 暗記中心の教育

 大学受験のために必死に暗記した物事が、社会に出てから実践的に活用する場面に出会うことが殆どないため、「学校の勉強は社会では役に立たない」と言われるそもそもの原因になっている。
 上記の暗記中心の教育システムによって、「東大など一流大学出身なのに就職試験で苦戦する者」が後を絶たない状況が生まれつつある。これは、就職試験では「面接」を中心に人物・コミュニケーション能力重視の選考が行われているのに、大学入試では暗記能力ばかりでコミュニケーション能力・人間力が養われないからであると考えられる。
 テクノロジーの発達やインターネットの普及により、コンピュータを使えば3分で答えが出てくるものを10代の貴重な時間を使って受験というウルトラクイズに答えるために覚えて何の意味があるのか?→「魚を与えるよりも釣り竿(釣り方)を与えよ。」という意見も多い。
 学歴社会・入学試験重視の学校制度、それによる受験戦争という現象が見られるのは、発展途上国がほとんどである。先進国の中で入学試験重視という画一的な学校制度を維持しているのは日本だけである。
 アメリカでは一般入試、一芸入試、推薦入試、ポートフォリオ提出、実技、面接、体力測定など様々な角度から優秀な人材を見つけ入学させる傾向にあり、推薦や実技・課外活動の比重はとても大きい。
 「子供たちが将来、各々の個性を生かしながら、"現代社会で幸せに生きていく"ための知識やツールを学習する」ことが教育の目的であり、「親や子供が、テストや偏差値の高さを競ってくだらない優越感を得る」のが目的ではないという事を、まず教育する立場のそれぞれの大人達が認識しなくてはならない。
 フランスでは、一部のエリート大学を除いては、希望すれば誰でも大学に入学できる代わり、本当に勉強をしなければ容赦なく進級テストを落とされる制度となっている。まず大学に入ると、教授に「恋愛か勉強か選びなさい」と言われ、本当にそのくらい勉強しなければ進級できないという有名な話が、それをあらわしている。
 イギリスでの教育理念は、「その子にはどんな能力があるか」「どの能力が一番優れているか」を見つけ、それをどう伸ばしてゆくかということに重点が置かれている。
 暗記中心教育の弊害は主にテストさえ通ってしまえば一生を保証されるような分野、公務員試験・教員試験・司法試験などを実施しているような分野で多く見られる。今までガマンして勉強してきた分の見返りを求め、公務員の何たるかを忘れ自分達の保身ばかりを考える公務員・社会経験が浅いので自分が勉強してきた暗記中心の教育しか教える事ができない教員、子供に信用されない教員・今まで勉強漬けであったために世間の人情や常識に疎いのだが、人を裁く立場にいる検事、判事、弁護士など。たまに政治家が本当に良い政策や改革を立案し実施しようとすることがあるが、おおむね官僚に骨抜きにされてしまったりするのは、本当に優秀な人の数より暗記試験にパスすることだけを目的に公務員になった人の数の方が圧倒的に多いためであると考えられる。
 日本は既に、小手先だけのカリキュラム変更だけではどうにもならないところまできており、教育の本質をキッチリ見つめた上での、教育理念そのものからの変革が必要とされてきている。中学数学や中学英語、中学理科、中学社会、中学国語などの中学生の主要5教科の勉強が中学校教育においては特に重要である。

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タグ:教育
posted by 塾長 at 02:29 | 日記
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