2006年09月06日

学校群制度

学校群制度(がっこうぐんせいど)とは高校入試実施方法の一つであり、複数の学校が「群れ」を作ってその中で学力が平均化するように合格者を振り分ける方法である。各自治体の公立高校のみが対象であり、国立や私立高校は対象には入らなかった。
特に東京都、千葉県、愛知県、岐阜県、三重県、福井県において高校入試で学校間の格差をなくすために用いられた。

また京都府や兵庫県、山梨県などでは現状でも「総合選抜」が実施されているが、それと異なるのは学区内に複数の学校群があり個々の学校群は「単独選抜」と同様の難易度の格差があったことである。「総合選抜」をとっていた広島県でも、三次地区と廿日市地区では2校間の総合選抜で実質的に学校群制度と同一だった。「総合選抜」とは、小学区制度かそれに近い形式を採る共通点がある。

公立学校間格差を無くし均質化を実現したことで成果を挙げたが、東京都では東大合格者数1位を記録していた日比谷をはじめ西、戸山、新宿、小石川、両国、小山台などの名門都立諸高の東大進学実績が落ち込んだ。

東京都
1940年 学区制度施行。4学区に分け学区間での受験は緩やかであった(その後1945年には7学区、1949年の新制高等学校への改編に伴ない10学区に分ける)。東京府立各校が内申と面接のみの入試制度を採用する。
1952年 合同選抜制度採用される。
第一志望に落ちても学区内であれば実際に合格圏内に入れる学校まで志望をだせるようになり滑り止めができるようになった。
1967年 東竜太郎知事時代(美濃部亮吉知事時代に実施、鈴木俊一知事時代に廃止)、小尾乕雄(おびとらお)教育長によって都立高校入試に学校群制度が採用されることになる。9→3教科受験になり、内申を実質的にペーパーと半々で考慮し比重が高まった。
都立の特権進学校をなくし八ヶ岳的に進学実績がなだらかになることを狙ったものと云われているが、国立や私立高校、ひいては私立中学へ受験生が流出し都立高校の進学実績が全般的に低下することになった。また、これ以降、15歳どころか12歳の春を泣かせることになり受験低年齢化に拍車をかけた、あるいは当初の八ヶ岳的な多様性を狙いとするのなら国私立も含めた大枠からの施行であるべきところ、単に国私立の特権校をつくりだしただけだ、などとの批判も根強い。内申点の重点化は、中学生の部活動加入を高め、また偏差値による輪切りが見られるようになるなど当時の管理教育の時代背景があることも見逃せない。
例えば、第一学区では、日比谷は九段及び三田と学校群「11群」を形成。@他の主要学校群がおよそ二校なのに比して三校で群を形成、A受験生の意思による単独での学校選択が出来なくなったこと(その他に部活動に関しても、入学後は野球をする意志のある者は野球部のない三田には入学しないであろう)、B住民抄本提出の義務等など学区外からの越境入学が難しくなり受験出来る者が限られたこともあり、志願者層の変化が起こったこと、C1965年の進学指導中止を申渡す「小尾通達」もあり、学園紛争の影響下、都立各校では進学指導を中止する動きが広まったことや補習科の廃止など、教える側の熱意が奪われたこともあり教育内容面での変化も起きたこと、D時代的に国私立の中高一貫校の台頭など進学ルートの多様化が既に見られたことなどから、東大合格者数トップの座を失い、以後も同じ都立高である西や戸山等と比較しても急速に東大合格者数上位校からもその名が消えることになる。
1982年 学校群制度が廃止される。
学区内でおよそ2つのグループに分けた合同選抜(グループ選抜制度)を採用。5教科受験になる。
志望順が尊重されるようになり第一志望に落ちても学区内で実際に合格圏内に入れる高校まで志望をだせ滑り止めができるようになった。グループに分けたのは特定校への受験集中を緩和する意図があったとのことである。
また事実上は隣接学区からの受験者もいた。
1994年 グループ選抜制度廃止。各校毎の単独選抜制度に移行。各校毎の事情に合わせて比重が異なるようになった。特に2000年以降、内申の評価が相対から絶対に移行し学習進度を正確に表さなくなった為に、その傾向が顕著になってきた。
隣接学区枠を設ける。また2001年には「進学指導重点校」を設け、第一号に日比谷・西・戸山・八王子東が指定される。「小尾通達」以来、およそ35年ぶりに公式に進学指導を打ち出す。進学指導も都民の多様なニーズに応える一つの施策として位置づけられる。
2003年 学区制度廃止。
学校群(1967年の制度発足当時)
第一学区(千代田区・港区・品川区・大田区)
11群 日比谷 九段 三田
12群 赤坂 城南 八潮
13群 大崎 南 雪谷
14群 小山台 田園調布
15群 大森 羽田 
第二学区(新宿区・渋谷区・世田谷区・目黒区)
21群 新宿 駒場
22群 戸山 青山
23群 都立大附属 目黒 広尾
24群 桜町 深沢 玉川
25群 千歳 松原 千歳丘 明正
第三学区(中野区・杉並区・練馬区)
31群 武蔵丘 鷲宮 練馬
32群 西 富士
33群 豊多摩 荻窪 杉並
34群 大泉 石神井 井草
第四学区(文京区・豊島区・板橋区・北区)
41群 小石川 竹早
42群 北園 板橋 豊島
43群 北野 大山 志村
44群 北 城北
第五学区(中央区・台東区・荒川区・足立区)
51群 紅葉川 日本橋 京橋
52群 上野 白鴎
53群 足立 江北
第六学区(墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区)
61群 両国 墨田川 小松川
62群 本所 葛飾野 南葛飾
63群 深川 東
64群 江戸川 小岩
第七学区(多摩地区)
71群 富士森 南多摩 日野
72群 立川 国立
73群 北多摩 昭和
74群 武蔵 三鷹
75群 府中 神代
76群 小平 久留米

91群 一橋 忍岡 竹台
92群 赤城台 向丘 文京

 ※ 91群は第一学区および第五学区、
   92群は第二学区および第四学区から受験可能

1968年創立の東村山は76群に編入されたが、それ以降の新設校は学校群を組まず、単独選抜が行われた。
また、1970年に従来の25群が、25群(千歳・松原)と26群(千歳丘・明正)とに分割され、
1978年からは、練馬、日野、久留米の3校が、学校群から分離され単独校となった。

1980年当時の各学校群のおよその難易度(晶文社高校受験案内より)
特 22群(戸山・青山)32群(西・富士)72群(立川・国立)
A1 11群(日比谷・九段・三田)21群(新宿・駒場)34群(大泉・石神井・井草)41群(小石川・竹早)52群(上野・白鴎)61群(両国・墨田川・小松川)74群(武蔵・三鷹) 国分寺 調布北
A2 14群(小山台・田園調布)23群(都立大附属・目黒・広尾)25群(千歳・松原)33群(豊多摩・杉並・荻窪)42群(北園・豊島・板橋)53群(江北・足立)64群(江戸川・小岩)75群(府中・神代) 城東 八王子東 保谷 狛江
千葉県
1975年〜1977年実施。

第1学校群
千葉 千葉女子 千葉東 千葉南 千葉市立
第2学校群
船橋 船橋東 薬園台 市立船橋 市立習志野 八千代
第3学校群
国府台 国分 鎌ヶ谷
既存校と新設校との格差は改善されたが、合格者の上位20%は志望校に入学できたため、他地域のように名門校の進学実績が落ちることはなかった。

愛知県
1973年(昭和48年) 仲谷義明(なかやよしあき)教育長(のち県知事)によって、名古屋、豊橋、一宮、岡崎、刈谷地区の公立高校普通科入試で採用される。この時採用が予定された蒲郡地区は地元の反対で見送った。
名古屋地区は県・市立の15校が各校2つの学校群に所属する15の複合学校群。
豊橋地区は4校で2学校群、一宮・岡崎・刈谷各地区は2校で1学校群の単独学校群を採用。
しかし、学校群の編成は1973年のみで、1974年以降の新設校の学校群への組み込みは頓挫し、各校で単独選抜を実施した。
1989年(平成元年) 学校群制度廃止される。
別日程で2校を併願できる複合選抜制度に移行。複合選抜制度下では、普通科入試においては群を跨いでの受験はできないが、同一群内のA・Bグループ各1校の併願ができる。
学校群
名古屋市
名古屋1群  市立菊里 千種
名古屋2群  千種 旭丘
名古屋3群  旭丘 市立北
名古屋4群  市立北 名古屋西
名古屋5群  名古屋西 中村
名古屋6群  中村 明和
名古屋7群  明和 松蔭
名古屋8群  松蔭 惟信
名古屋9群  惟信 熱田
名古屋10群 熱田 瑞陵
名古屋11群 瑞陵 市立桜台
名古屋12群 市立桜台 市立緑
名古屋13群 市立緑 昭和
名古屋14群 昭和 市立向陽
名古屋15群 市立向陽 市立菊里
豊橋市
豊橋1群 時習館 豊橋南
豊橋2群 豊橋東 豊丘
一宮市
一宮学校群 一宮 一宮西
岡崎市
岡崎学校群 岡崎 岡崎北
刈谷市
刈谷学校群 刈谷 刈谷北
岐阜県
1974年〜1982年まで岐阜学区と西濃学区で行われた。




岐阜学区5群 岐阜、加納
岐阜学区4群 加納、岐阜北
岐阜学区3群 岐阜北、岐山
岐阜学区2群 岐山、長良
岐阜学区1群 岐阜、長良
上記の5校以外の岐阜学区の高校は単独選抜。


この当時は現在と異なり加納高校が学区内2番手、岐阜北高校が学区内3番手であった。この当時の加納高校は岐阜高校を目標としていたため非常に校風は厳しく、その成果もあり最盛期には東京大学・京都大学合わせて20人以上合格する年もあった。現在の加納高校は、その反動のためか自由な校風であり、大学合格実績では岐阜高校、岐阜北高校の国公立大学合格者が250名を超えるのに対し、加納高校は150名程度と大きく水をあけられ、コンスタントに140名前後の国公立大学合格者を出す岐山高校にも肉薄されている。岐阜県に関して言えば学校群制度により高校受験における学力の低下が顕著に見られるということは他県に比べて少なかったように考えられる。


西濃学区では1974年〜1979年は大垣北高校・大垣東高校・大垣南高校の3校で、1980年〜1982年の入試では大垣西高校も含めた4校で学校群が組まれた。

1974年〜1979年

西濃学区1群 大垣北、大垣東
西濃学区2群 大垣東、大垣南
西濃学区3群 大垣北、大垣南
1980年〜1982年

西濃学区1群 大垣北、大垣西
西濃学区2群 大垣東、大垣南
大垣西高校ができた当時は上記のように大垣北高校との組み合わせだったため、創立当初から進学実績の高い高校であった。しかし1983年に学校群制度が廃止されると、大垣西高校は大垣市のはずれという非常に不便な場所に位置していたため、偏差値が急落。それ以降は国公立大学の合格者が10名程度にまで成績が落ち込んでしまった。また大垣南高校も設立当初は市内の中心部に位置し進学実績も良かったのだが、1974年に大垣東高校が設立された際に、大垣市南部の浅中に移転したため、設立が古く伝統がある大垣南高校よりも、大垣東高校のほうが進学実績が上となってしまった。(国公立大学合格者数  大垣北 毎年270名前後、大垣東 毎年150名前後、大垣南 毎年60名前後)

三重県
学校群
北勢学区
1群 四日市 四日市南
中勢学区
2群 津 津西
南勢学区
3群 宇治山田 伊勢
1995年に学校群制度が廃止され、四日市南、津西、宇治山田のレベルが相対的に低下した。津西は廃止後もそれなりに健闘しているのに対し、四日市南と宇治山田は壊滅的と形容できるほど低下した。四日市南については現在、同校Hpに進学実績が掲載されないという事態にまで発展。地理的に恵まれなかったとも言われる。また、南勢学区は人口が希薄だったこともあり、もともと3群のレベルは他と比べて随分劣っていたが、学校群制度の廃止によって宇治山田の進学実績は国公立大学の合格者数が50人に満たないほどにまで低下している。

現在は伝統的進学校の四日市、津の二雄が圧倒的な進学実績を誇るが、2006年現在は四日市のレベルが津を若干上回る可能性もありえる。

福井県
1980年 福井市内の藤島高校、高志高校による学校群入試が開始
2004年 学校群制度が廃止
学校群
第一学区
藤島 高志

広島県
1956年 旧広島市内普通科高5校で5校を一括で総合選抜実施。
同時に実質的に小学区制(47学区制)から大学区制(4学区制)に移行したため(正式には1962年)通常「市内五校」と呼ばれた総合選抜実施校は、県内広範囲から受験者を集めることができ、目立った学力低下は見られなかった。

1976年 県内6地区で、新たに総合選抜実施。大学区制(4学区制)から中学区制(14学区制)に移行。
大学区制による下宿生の増大などの問題を解決するため、中学区制に移行した。 同時に『市内五校』のほか、新たに6地区(呉・三原・尾道・福山・三次・廿日市)で総合選抜実施する。 そのうち、呉地区は三校間、三原、尾道、三次、廿日市地区では二校間でしかなかったため実質的に学校群制度と同一であった。 さらに、中学区制移行に伴い、広島、三次地区では、学区内に総合選抜高以外に公立普通科高がなくなり、実質小学区制となった。移行措置として、各高校とも定員の10%(第4学区「市内五校」は20%)は他学区の生徒を受け入ることが可能であった。しかし、その措置も1981年からは全高校とも定員の3%に縮小、1998年5%に再拡大するも、進学実績が徐々に振るわなくなっていった。 特に、県北部の進学校である三次地区の三次高校は、実質小学区制になったうえに総合選抜相手高である日彰館高校が地理的に冬季は下宿を必要とする可能性があったことや、福山地区では、総合選抜各校の距離が遠いこともあり、さらに進学実績も振るわないようになっていく。

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タグ:学校群制度
posted by 塾長 at 01:07 | 日記
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